行程2 あたしちゃん、行く先を言って-太田省吾全テクストより:ユーモアでもあればなあ

まあよくわからなかった、と言ってもいいんだけど何かひねり出してみたい。


アフタートーク。三浦基が、役者が特定の人物を背負わないで演劇を成立させることができるかみたいなことを言っていて、この芝居はまだ「行程」で変化していくんだけれどもこれからどうしたらよいでしょうかねと聞いたら、聞き役の戌井昭人鉄割アルバトロスケット)が、役者の中に綾小路きみまろを混ぜたらいいじゃないですかね、しかも綾小路っぽいしゃべり方をまったくさせないで、という案を出した。すると三浦基は、しばらく黙って、いややりたいのは、綾小路きみまろみたいな特定の役を演じさせるのではなくてですね、みたいなことを言い出してぽかーん。ユーモアとか、ちゃんとひとの話を聞くこととか大事だと思った。


地点、三浦基、は初。楽しませる気がないんだろうし、ほとんど楽しくない。演劇で演劇批判やってるつもりかもしれないが、古臭すぎやしないか? 役者が特定の人物を背負わない演劇が可能か? そんなん別に可能で、その上で・それでも観客が寝ないで観れてなおかつ新しいものにするにはどうしたらよいかを、みんながんばってるんじゃなかったっけ。柿食う客とか。あるいは瞬間的に役者と人物の1対1対応が成立することすらも拒もうとしている? だとしたとき、役者から出てくる身体性という魔法のオーラは打ち捨てられてしまって、役者は視覚刺激と聴覚刺激をつくるただの装置になってしまうのだろうか。逆に人物性が剥奪されていった極限には純度の高い身体性がある? でも身体性に興味があったらこんなの作らないし。


中身の話。その上を役者が走ったり歩いたりしたコンクリートブロックは演劇の前提か何か? ときどき床に下りる場合があったけど床はどこなんだろう。舞台左側にプロジェクター映像あり。木・山・家・道・車・道・船などからどうしたいんだろう。声の無い世界として提示していたとか? 役者が傍を走っていると触れてスクリーンがゆれたんだけど、そこに何か可能性がありそうな気がしないでもないがそういう芝居ではないんだろう。中盤のプロジェクターに台詞を写しての声の台詞と文字の台詞の掛け合い、は何なの? やってみただけちゃうんかと思っている。


とか言いながらも、観た人がそれぞれ何を見えたのかは気になるタイプの芝居。みんなてんでばらばらの違うもの見てるんじゃないかな。


http://kawasaki-ac.jp/theater-archive/090703/
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_id=13654

▼脚本・構成・演出
三浦基


▼あらすじ・解説など

『あたしちゃん、行く先を言って ―太田省吾全テクストよりー』行程2
「私は、よいライバルを得た。」―2004年、ノルウェーの劇作家ヨン・フォッセの作品を同時期に手がけることになった三浦基へ寄せられた太田省吾の言葉である。翌年、東京から京都へ活動拠点を移した三浦は、彼の地で教鞭をとる太田と再び出会い、現代劇について思考し続けるその姿勢と哲学に深く共鳴しながら、自らの創作に取り組んできました。


戯曲の他に数々の演出論・エッセイを著してきた太田省吾の全てのテクストを対象に再構成を行い、年間で4度の上演機会を設けるという、『あたしちゃん、行く先を言って』。川崎市アートセンターでの公演はその2度目にあたり、〈行程2〉と銘打った実験公演を行います。
自らの手による台詞さえ舞台上で奪う、前人未踏の<沈黙劇>を生み出した太田の言葉を用い、現代劇において舞台上で台詞を言うこと(発語)はいかにして可能か、拠って立つところを持たない〈私〉とそのような今日的状況における演劇とはなにかを考える、地点の新たな試みです。


▼出演
安部聡子、石田大、大庭裕介、窪田史恵、小林洋平、谷弘恵