「アントン、猫、クリ」作・演出:篠田千明(快快)、死を扱う優しい手つき

アゴラで5/4(月)16時の回。友人2人と。

http://kr-14.jp/kr-14web/

『アントン、猫、クリ』 作・演出:篠田千明(快快)
出演:カワムラアツノリ(初期型) 中村真生(青年団
アパートに野良猫が住みついた。
えさをあげる人、えさをあげてる人を見て声をかける人、興味はないけど気にしてしまう人、
道の反対側にすんで窓からその様子を見る人、猫が嫌いな人。
半径50メートルのアパート界隈で、次々と広がっていく景色。
描きつくそうとしたら、50メートルだって宇宙だ。

つきぬけた感じはないけどおもしろい。笑ったり泣いたりした。

死と記号、とか考えながら観た。記号はイメージを喚起する。しかも記号を知る人なら誰にでも。雨が降っている様を「雨」という文字や「雨」という発話で表示したとき、「雨」という記号を知っている人は誰でも瞬時にイメージが喚起される。この点に関してはわれわれに自由はなく不自由しかない。なんという拘束感。で、死。死は「死」と表示されない。台詞や所作やさっき言ったような記号やシーンや人物のやりとりを積み重ねて少しずつ時間が進む。ひとつの時空間ではなく複数の生きられたしかし断片化されたサンプリングされた時空間が重なり合いながら動く。この表現手法がとても優しい気がする。死(の記憶)を取り扱う手つきがとても優しい気がする。手つきはウェットだがしかし道具はクールな記号でありサンプリングされた音声や場面の記録/記憶であるというのがどうなんだという話でこれはいろんな人の感想が知りたい。コントラストが見事なのか、一回限りの共有されない死を共有される記号の集積で包み込んだのが逆にリアルだ、とみるのか、アイデアを使いたかっただけでしょとみるのか。死というより生きていたことに焦点を合わせた方がいいのかとかいまさら思ったり。

終わってから作・演出の篠田さんトークがあったので豆腐の演技が好きだと伝える。ほかの人の質問で主題と手法の必然性みたいなのがあって、悩む。手法が恣意的でいけない理由も無い気もするが、その手法が必然でもいいような気もする。ただ恣意よりも必然のほうが演劇的なのかもしれない。なぜなら主題に対して演劇化するというが既に手法であり、演劇化する理由・根拠・衝動?について我々は知りたいし感じたいし作り手も示したいという気がするからだ。私は表現者じゃないので人の意見が聞きたいところ。あとこの手法の元ネタ的なのを教えてもらったので紹介。わらける。すごいアイデア

新雑誌「りたーんず」を購入。戯曲が入っているのがうれしい。
http://kr-14.jp/kr-14web/2009/04/416.html