『刑法175条』

『刑法175条』月刊ヤマガタ8月作品@シネマート六本木

刑法175条
Paragraph 175

アメリカ/1999/英語、ドイツ語、フランス語/カラー/35mm (1:1.85) /81分

監督 ジェフリー・フリードマン、ロブ・エプスタイン
脚本 シャロン・ウッド
撮影 バーンド・マイナーズ
編集 ドーウン・ログスドン
録音 パスカル・キャピタリア
音楽 ティボル・セメズー
ナレーター ルパート・エヴェレット
製作 ロブ・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン
作品概要 ナチスによる迫害が、ユダヤ人だけでなく同性愛者にも及んででいたという事実はあまり知られていない。同性愛者を差別する「ドイツ刑法175条」によって迫害を受けた人々にインタビューする。ハインツは強制収容所での体験を告白。フランス人同性愛のパートナーが虐殺されるのを目撃し、ユダヤ人のガドは地下抵抗組織の指導者としての経験を語る。

http://www.yidff.jp/cgi-bin/fsearch.cgi?idno=20010505&title=&director=&nationality=&year=&synopsis=175


中盤までうとうとしながら。最近映画観にきて寝てばっかり。


『花と兵隊』と似て退屈した。しかし、傷を負った人間がその傷の経験について語ったり語りにくそうにする様を観て、「退屈した」って何様なんだろうか、と思わなくはない。けど退屈しないように出来ないのだろうかとも思う。事件が起こったあと傷ついた人間に語らせるという手法は、その事件や傷について表現し伝達するのに最善だろうかということなんだけど。しかし、こういった問題を対象とするドキュメンタリーを観ているとき、批判的姿勢になることは、問題への無関心や傍観者的態度に思えてくる。が、やはり思わずにおれないのは、けっこうむかしの出来事について、語りを素材としたドキュメンタリーは、リアルに迫ることができるのだろうか。そういうときにフィクションの力を使うこともできるのではないか。いやいや、そもそもの目的が記録それ自体なのだとしたら、これはこれでよいのかもしれない。となると、記録それ自体に興味の無い自分は退屈してもよさそうだ。けれども、そのとき、傷を語る人間が見せてくれる涙や怒りは、記録自体を目的にされて、記録されてもよいものなのだろうか。うだうだうだうだ。現在起こっていることが対象なのか、過去に起こったことが対象なのか、によってドキュメンタリーは対象への関係性が大きく変わってしまうのだろう、ということは間違いない。