『肉(Meat)』Frederick Wiseman,1976


『肉』 Meat 1976年/113分/モノクロ
野の草を食む「牛」はいかにして「肉」となるか。牛がトラックで牧場の外へと連れ出されてから、巨大精肉工場で製品化され、市場に送り出されていくまでの全工程を記録する。「牛」が徹頭徹尾「肉」として扱われるこの場所で、無数に細分化された各工程が一分の狂いもなく進行する過程を映し出す。

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観てから既に6日間が経ってしまった。ワイズマンを観るのはいったいどんな経験なのか。6日間ほぼ毎日考えていた気がする。ワイズマンの特徴は、近くも遠くもない距離で観させられている感覚とユーモアにあると思う。頭をつかまれてあれやこれやと観ろ観ろ観ろと。感情移入の手かがりは与えられず、かといって、完全に他人事とするには目を離せない出来事が持続するという。つかずはなれず注視し続けさせられる。でもたまに、こんなんもあるからね、と愉快やコミカルやかわいさを見せてもらえるという。飴とむちか。自分が観る機械みたいになるんだな。たまに油をさしてもらえるということか。そこまでモーレツに悦びがあるわけじゃないのに、そういったワイズマンでしか味わえない感覚があるから観続けたくなってしまうのだなあ。


『肉』の素材はお肉ビジネス。動物をつぶしてお金に交換する営みの詳細についての記録。牛をつぶす作業を映像で観るのは映画『いのちの食べ方(Our Daily Bread)』を含めて2回目だが、『いのちの食べ方』(森達也)と『世界屠畜紀行』(内澤旬子様の傑作! 最高! 必読で! 内澤さんの育てた豚を食べるイベントが予約いっぱいで残念!)で詳しく勉強させてもらったのでよく知っているほうだと思う。動物をつぶすという行為は、知恵(血をぬくのは生きたままとか)や、わざ(最初に脊髄をつぶせば作業が安全とか)の結晶なのだ。それがシステム化されるとどうなるか。文化がごそっと削げ落ちてしまった効率よくアウトプットを目指す行為は、まあ、見ごたえがあるに決まってるわけで。やな感じの綺麗さ(牛の頭がずらーって整列されてぶらさがってたり、機械で皮がびっくりするくらいぺらーと剥けたり)から目が離せまへんでっせ。お肉が好きな人には絶対観てほっすぃ。



という話はやめて。やっぱ牛の顔だね。家畜っぽい顔をずっと見てしまう。まさか急に殺したりしませんよねみたいな顔をじっと見てしまう。頭ちょんぎられて顔の皮むかれた顔がきた時にやっぱ顔だよなと思う。顔があるのに殺されるんだよな。あと羊の群れを先導するヤギ!なんだあれは。あのあと、羊はみんなつぶされるんだぞ。ヤギにあんなことさせていいのか、でも無茶苦茶可笑しい。あと行進からジャンプで飛び出していく羊! おっしゃ! あとけっこう逆光のショットを好んで使ってたけど、最初の牛の運搬と最期の肉の運搬の対称関係をわかりやすくしてくれているのか。あとファームの中央管理室につとめる女の子のハートの髪留め!を3秒くらいだけ挿入するワイズマン節! 真っ二つに割られた牛の枝肉に白い布がかけられた様がすごく美しかったな。


冒頭の、セリのシーンでやっぱりワイズマンは音楽入れたがっている疑いがかなり濃厚になってきたぞ。日常の中に隠れた音楽を自由にしたいとか。思ってないかな。で、やっぱ人間がおもろいんだよな。牛を小さくする作業場で座り込んで居眠りできたり作業しながらTVのアメフトみたりできると。